サクラサク




「…Dr、失礼してもいいかな?」

窓から光が溢れ出す、穏やかな風景を眺めていた背中に、入口の上部にその長い腕を伸ばして掴み、開いた場所いっぱいに存在感を示す男性が声を掛ける。

「今日は早いんですね」

暗に入室を促す柔らかい声音と共に、さらりと滑らかな髪が揺れ、回転式の椅子に腰掛けた人物が入口に向き直った。

「会議が思いの外、すんなり終わったから。Dr.にコーヒーご馳走になろうと思って」

室内に入って来た愛しいかんばせに、椅子に座っていた橋爪の目が細められる。

「今日はまた冷えましたからね」
「そう。天気はすごくいいのに、花冷え」

椅子の目の前にまで移動して、髪に指を伸ばし一房掬い取った西脇の指が、悪戯に髪を弄りながら囁いた。

「花が咲く前にぐんと気温が下がる」
「蕾も可哀相ですね」

こんなに冷えてしまっては、と呟きを零しながら、西脇の指に髪を預けた状態で橋爪が窓の外から道を挟んだ場所に立つ古木を微かに眉を顰め、心配げに見遣る。
そんな恋人の表情の変化に、指の隙間から髪を零して、同じ窓を西脇も眺める。

「…ねえ、紫乃」

静かな声が響いた。

「蕾、この寒さがないと開かないんだって知ってる?」
「ああ、聞いたことはあります」

寒さと暖かさのリズムを感じて、花は綻ぶのだと…誰かに教えてもらった筈だったが、橋爪にはそれが思い出せない様子で、席を立ち、コーヒーを煎れに行く顔つきも、思案顔で。

「蕾が開くまで、寒さに耐えてたんだろうな」

窓際まで寄った西脇が桟に軽く斜めに腰掛けて、表に向けていた視線を戻し、橋爪の手の中注がれる暖かいコーヒーに目を細める。

「いつか、暖かい光が射す事を知ってるんだろうし」
「蕾が?」
「うん、蕾が。じゃ、なきゃ寒さを耐えてまで咲こうなんて思わないだろう?」

軽く肩を竦めて西脇が笑う。

「西脇さんが蕾なら、さっさと咲いてしまいそうですね」

コーヒーカップを差し出しながら、橋爪も小さく笑う。

「いや、こう見えて俺は耐えると思うよ?」

受け取ったコーヒーに一口、口をつけてから、西脇が呟く。

「Dr.もそうでしょ?」
「え?」
「咲く時までひっそり力を蓄えた…」
「あ…」

西脇が言わんとしている事に気付いて、橋爪の顔に朱が挿す。

「あなたって人は、どうしてそう…」

耐えて忍んで、一人の寒さを越えて、腕に抱かれ、抱き合って…怖がりで臆病な気持ちが合わさって…
互いが互いの胸の中に花を咲かせた、あの日。

「Dr、花が咲いたら、お花見に行こうか」
「西脇さん…」
「耐えて咲いた花を褒めにさ」

コーヒーカップを道向こうの古木に掲げて見せる西脇は、いつもの口調のままなのに、表情は穏やかな…橋爪にしか見せない笑みを浮かべて。

「…花が咲いたら、お弁当でも持って?」

橋爪も窓の外へと目を向ける。

「うん、花見をしよう」
「…いいですね」

橋爪がコーヒーを片手に椅子に戻り、腰掛けるとゆっくりと目を閉じる。瞼の奥に幻。満開の淡い桃色の花の中、小さな自分と姉と母。
自分の生まれた年は…花が咲くのが早かったのだと、母に告げられた事が思い出された。

「紫乃」
「…はい?」

橋爪がゆっくり瞼を開く。
カップを持たない空いた片手の甲で橋爪の頬を緩く撫でながら、西脇が橋爪の耳元に屈み込み、そっと言葉を告げ…
橋爪が咲き誇る花のような笑顔を浮かべた。

「桜は咲いてる?」


春はもうすぐだ。


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