HONEY 橋爪紫乃の吐息


「ただいま」

室内に入った西脇を二人部屋一杯に広がったコーヒーの香りが出迎えた。

「おかえりなさい」

シャツの腕を捲くって白い腕を曝した橋爪がカップに琥珀色の液体を注いでいる姿が目に入る。

「いい匂いだ。Dr…だいぶ前から帰ってたの?」
「いえ、一時間程前です」
「そうか…、今日は早かったんだ?…夕食は?」
「先程、アレクと一緒に取りました」
「…アレク?」

クローゼットを開けて、制服を脱ぎ、私服のシャツに手を掛けていた西脇の手が一瞬止まる。

「アレクが誘いに来たんです。…西脇さんに活躍してもらってるって…。何してきたんですか?」
「どこまで聞いたの?」

橋爪に背を向けてシャツを羽織りながら、西脇は耳をそばだてる。

「…それだけですよ?」

それで、と話の水を向ける恋人に西脇が軽く肩を竦め

「隊内宅急便…ってとこかな」

自らに笑いを零し、丁寧に脱いだズボンから、橋爪に見えないようにそっと紙袋を取り出した。

「また、何か企んでるんですか?」
「企むって…紫乃、どうしてそう思うの?」
「…あなたは『西脇さん』ですから」

あまりの言い草に何か言ってやろうとチノパンに足を通し、ポケットに紙包みを突っ込んで振り向いた西脇の目に…。

「Dr…?」
「…今日は…その…そういう日ですから」

イベントに興味が薄い筈の橋爪の手の中に、リボンのかかったバーボンの瓶。

「…イベントには…興味ないんじゃなかったっけ?」
「去年までは」

「今年は興味が?」
「…たまたまですよ」

近づいてくる西脇の視線を感じてか、所在なさげに宙に視線を泳がす橋爪の、瓶を持つ手に、西脇はそっと手を重ねる。

「ずいぶん、冷えてますね」
「うん、今日も寒かったから」

瓶を片手で取り上げて、重ねた手を自らの頬に導いた西脇が、橋爪を真っ直ぐ見つめる。

「ほら、冷たいだろ?」
「寒がりなのに、こんなに冷えて」
「うん、だから…」

耳元に唇を寄せた西脇がそっと唇を動かす。

「あたためて?」
「仕方ないですね」

橋爪は笑いを零して、導かれた手を頬に滑らす。包み込み、掌で温めていくように強めに押し当てる。

「あったかい」

柔らかい眼差しが、そっと吐息と共に零れ落ちて、その穏やかな表情に橋爪の方もほろり、息を吐き出した。

「紫乃は寒くなかった?」
「今日はみんな寒かったですよ」
「確かに、そりゃそうだ」

西脇はされるがまま頬を滑らかな指先で撫でられ続け、その目を瞑った気持ちよさげな猫のような表情に橋爪が笑顔を零す。

「少しは暖まりました?」
「これで寒かったら、何しても寒いままでしょ?」

即答した西脇が橋爪の手に重ねていた手を、触り心地のいい髪に滑らせる。

「Drの手、気持ちいいな」
「そうですか?」

髪をさらりと揺らして見上げた瞳に見つめられ、西脇が恋人の鼻先に軽く口づけた。
軽く身じろいだ橋爪が伏せた瞼。長いまつげがそっと影を落とした。

「…ね、紫乃?」

指から零れる髪を掬い上げながら西脇が耳元に口を寄せ、風呂に誘う。

「…何、言ってるんですか」

掴んでいた指からも、頬からも、腕からも離れてしまった体温に、西脇はさほど惜しくもない口調で『残念』と呟く。

「私は後で入りますから、入ってきて下さい。お湯は張ってありますよ?」
「はい、Dr」

妙に聞き分けのいい恋人に微かに違和感を覚えながらも背中を送り出す橋爪。
一方、西脇は脱衣場に入った瞬間に、まだ自分の手に持たれたままのバーボンの瓶を眺めて破顔した。

「…紫乃がね」

本当はアレクから、バレンタインデーのチョコレート配達をしてた事を聞いたのだろう。
興味ない筈の恋人がイベントに荷担している事を知って用意したんであろうことがわかり、西脇の笑みは止まらない。
服を脱ぐと、忘れずにアレクから受け取った紙袋を持ち、浴室に足を進めた西脇は温かな湯気に目を細める。

「俺からもお返し、しなきゃね、紫乃?」

紙袋の中身を取り出す。掌に収まる程度の丸く赤い物体。

「驚くかな」

湯の中へそっと球体を浮かすと、その傍らで西脇は鼻歌まじりにシャワーを捻り髪を洗い出した。


西脇と入れ違いに橋爪は風呂場に入り、その光景に息を吐き出した。

「ああ、もう…」

イベントになんて興味ないという西脇にまた騙されてしまった自分が情けないと思いながらも、橋爪の表情は綻ぶ。
湯舟に薔薇のハート形の花びらが広がる。
けれどそれにも増して艶やかなのは。
けして他の誰の為でもなく、ある一人の為だけの匂い立つように笑う橋爪の華のような笑顔。



 …西脇が今日の労働のご褒美にその華を見るまで、あと僅かだった。


Short Story Top
Index