コーヒーブレイク~宇崎の場合~


何だか、ここ最近、真矢が仕事ばかりしている。

異常事態だ。
この部屋に居ても奴の腕が首に絡むこともないし、『おはよう』『おやすみ』の挨拶こそすれ、勤務時間も擦れ違いっぱなし。
…まあ、俺にとっては、余計な事に気を遣わないで心置きなく持ち帰りの仕事やら、何やら出来るけど…。

そうだ。第一、異常だったのは今までの方だったのだ。

毎日のように告げられる臆面ない恥ずかしい言葉だの、背後からふいに抱き締める、あの変な癖だの、寒いと言って寝床に侵入してくる遠慮の無さだの…!
慣らされて、当たり前になりつつあった光景。
でも、普通はあんな事、有り得ないのだ。
今日も一日、そういう意味では平和な普通の一日だった。
夜勤明けで昼過ぎに起きた時にはもう真矢は勤務に就いていたから、挨拶もしてないし、そのまま今日は外へ出たから食堂なんかでも見かけずにいて。
考えてみたらこんなに顔を見てない事自体がひどく久しぶりだ。
買い物から帰り、室内に入ると、薄暗い明かりの中でテーブルに置かれた明かりを頼りに真矢が書類を読んでいるのが目に入った。
珍しく俺が帰ったことにも気づかない真剣さでキーボードを叩いては何かを考え込んでいる様に、邪魔せぬように自らのベットへ向かい、荷物を置いた。
真剣な眼差しで画面と書類を交互に見ている横顔は、男の俺の目から見ても整っていると思う。
結構、いい線いってるし、その気になれば彼女の一人や二人…まあ二人はマズイだろうけど…すぐに出来るだろうことは恋愛事に鈍いらしい自分でも分かるというものだ。
なのに、何をどう間違って、俺なんかが好きなんてコイツが言うのか…。
何故俺なのかは分からないけど、コイツの本気だけは疑いようもなく分かる。
キーボードを打ち始めた音に紛れて、簡易キッチンへと向かった。
あんなに根を詰めたら、そりゃ疲れるだろう。
時折、眼差しの鋭さが画面を睨むとぎゅっと閉じられる事に気づいて、自然とコーヒーメーカーに豆を入れていた。
少しは休まないと、身体にも心にも悪い…。
キーボードの音が止む頃には、コーヒーメーカーに水を注ぎ終わっていた。

「ただいま、真矢」

声を掛けたら、真矢の背中が小さく跳ねて振り返る。

「お帰り、宇崎さん」

どこかぼんやりとした声で応え返して、無防備に笑いかけてくる真矢に胸の奥が小さく痺れるような感覚を覚えるようになったのは何時からだったろう…?
仕事続けろよ、と促した俺に、『うんごめんね』と呟いてから、また書類を読み始めた。
何に対しての『ごめん』なんだろう。

無意識にでた言葉に気持ちが引っかかる。
話せなくて?構えなくて?気にかけられなくて?
真矢に言われる、そういう恋人めいた言葉の数だけ、俺はどきまきしたり、苛立ったり、時折、泣きたくなったりもする。
毎日のように繰り返される柔らかい告白や、何もかも包むように回される腕や、気を遣われていることにすら気づかない程の寛容さを、それが自分たちの形なのだと錯覚しそうになる度に、これは普通のことじゃないと思い直す自分が情けなくなる。
失くすことは出来ないと悟ってるくせに、その関係の名前に拘ってる自分は馬鹿らしいのかも、とも思う。
だけど今はまだ、ちゃんと応えられないんだ。
だから、必死で誤魔化す。こんなの普通じゃない、日常じゃない。
お前の腕が気持ちいい訳ない…。

ごめん、は俺の方。

ベットへ向かい歩き出す。買ってきた荷物から、本屋の包みを取り出した。
真矢がいつも読んでる雑誌の最新号。
忙しそうな真矢のことだからまだ手に入れてないだろうと推測して、買ってきたのはいいけど…。面と向かって渡すのは、少々、恥ずかしい。
真矢のベットの上に包みから出して着陸させ、再び、視線を真矢に返す。
書類を見ていた筈の目はどこも見ていないような視線に変わっていて、小さく息を吐いた。
今はまだ、全てを応えてやれないけど、俺は俺なりにお前の役に立ちたいよ?お前が疲れていたら、それを少しでも楽にしてやりたいって思うし…。

ねぇ、真矢。
それで、お前が笑ってくれたら嬉しいのに、と思ってんだよ?

キッチンに戻ると、真矢のカップに淹れたてのコーヒーを注いだ。
何かのついでみたいに渡そう。
ぼんやりしてたから、とか何とか言って渡せば、不思議に思うこともないだろうし。
注いだコーヒーを零さぬように持ちながら、真矢の背後に回る。
真矢は気づいてない。緩く触り心地のいい髪の端を掴みながら、カップを後ろから突き出した。

「真矢?…真矢?…真矢!…少し休憩したら?何かボーッとしてたぞ?」


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