雪晒し


隣に居てくれたことが当たり前だと思っていた。
けれど、これが当たり前でないことが今は良くわかるのだ。

「外に出る時はコートを着て行ってってば」

まるで子供に言い聞かせる親のようだと言われているのは自分なのに他人事のように分析していた。
以前の自分なら怒っていただろうと思うようなことも背後からかかる声がいつも通りのトーンであることが酷く嬉しくてそのまま振り返る。

「コートがあると館内に居るのかと思って館内ばっかり探し回るから」
「誰が」
「俺が。ほら、見てて寒いから着て!今すぐ着て!」

さっと目の前で広げられたコートに袖を通す。
昔ならば奪ってでも自分で着ていたからからかわれるかと思ったが、なんのことはない顔をして庭を見ているから考えてもいなかったのだろう。

「明日、入るって」
「何がだ」
「雪の引き取り」
「ああ」

久々に東京でも大雪が降り、官邸の見事な庭も埋まるような雪に覆われている。
普段なら自然に溶けるのを待つところなのだが、今年は更にその上へと雪が積もった。
このままにしておくと、下の雪が固まって氷状になってしまい、除雪が難しくなるらしいことから、先日、都へと依頼をしてもらっていたのだ。

「それを伝えに来たのか?」
「それも伝えに来た」

さくりと雪を踏む足にはスノーブーツが履かれている。
滑る危険があるから巡回する隊員にだけは許可して欲しいと言われ、急遽委員会の許可を取った代物だ。
隊員は全国から来ている。
勿論、雪の多い地域のものならヒールでも歩けるというくらいだから問題ないのだろうが、雪のない地域のものはかなり手こずっていた。
怪我がないようにするのが一番だ、とある程度の可動は出来、滑らないショートブーツが外警に着用許可された。
勿論、自費で、だが。

「今日の雪で、東名の海老名からの全線、首都高全線閉鎖されたって今、情報入ったから」
「じゃあ、総理のお戻りは深夜になるな」

お疲れだろうにお気の毒だ。
名古屋の国際シンポジュウムに出席された後、官邸に戻られる予定。
何でも急を擁する会議だとかで官僚の方々が会議室で既に待機されているから、中止というわけにもいかないだろう。

「幾人かそれに合わせて残業してもらうように話はしてあるんだけど」
「ああ」
「昨日、今日で体調崩し始めたの何人かは上がらせた」

悪天候は外警の仕事にとって天敵に他ならない。
今回の大雪は内勤のものでも堪えたのだから、外警は更に骨身に染みただろう。

「問題は、明日以降一週間に雪が三日あるってことなんだよ」
「それは参ったな」

ただでさえ、官邸警備隊は少数精鋭の警備隊の為、一人の穴も大きな痛手になる。
シフトで回す仕事だからこそ、皆、責任を持って体調管理もしてはいるが予想外のこの天候での勤務では正直難しい部分もあるだろう。

「だから外警のシフト一部組み替えようと思って、見て欲しくて探してた」
「私にか?」
「うん。この後、VIPの来日も控えてるから、組み替えた時に何か問題出そうだし、尾美の考えも聞かせて欲しくてさ」

ポケットから取り出された一枚の紙をひらりと動かされて手を伸ばすと、そのまま再びポケットへと戻された。

「ここじゃなくて館内入ろうよ。尾美の鼻、真っ赤なんだもん」

笑う康の表情で自分の鼻頭に触れると、冷えきっていて触れた感覚も良くわからなかった。

「そもそも、コートも着ないで、何やってたの?」

雪を踏む音を立てながら、館内へと歩を進める。
サクサクという音は耳に心地良いが、指先は次第に冷えてきた。

「いや、雪で庭木が折れそうだと食堂で外警の班員が話していたのが聞こえたので、少し様子を見ておこうかと」

実際、木々は思っていたよりもしなやかにその身で雪を受け止めており、雪が払われれば、また元の枝ぶりに戻るだろうと感じられた。

「変われば、変わるもんだねえ」

入口で足についた雪を払い、水気をマットで拭ってから館内に足を踏み入れた。
雪の影響で帰れない官邸職員の幾人かと会釈を交わしてから、康の言葉の真意を聞くべく、横を歩く顔を覗き込む。

「尾美は、本当に色々変わって帰ってきたって思って。つくづくね」
「今更、また、それか」

何度か聞いたことのあるその台詞に肩を竦める。
もう、国会の研修から戻ってきて随分時間が経ったというのに、時折思い出したように康は私に告げるのだ。
理由はわからないのだが、何かが康の琴線に触れたのだろう。
廊下を歩きながら、康が口を開くのを待つ。

「さっきさ休憩室で、雪の上に染め上げた反物をばっと広げて置いておくっていうのをテレビでやってて」

けれど、口にされた言葉は予想外のものだった。

「布についた染料の残りとか余分なものが抜けるのと、しなやかになるらしいんだよね」

広げられた反物を、まだ汚れてもいない無垢な雪に晒す。
その光景は私も見たことがある。

「…『雪晒し』か?」
「そうそう、尾美物知りだね」

以前、何かの旅番組でやっていた光景だ。
雪へと移った色が何だか不思議な色合いで光っていたのを思い出す。
それは雪の氷のかけらの反射だと暫く見ていて気付いたが、それ以上に色が抜けて吸われていくということ自体が興味深かった。

「さっきさ」

執務室への廊下はぐんと人通りが少なくなる。
雪が音を吸うのか、やけに静かなこともあるのだろう。
康の声がやけに響いた。

「雪の中で立ってた尾美の髪がさ、その反物みたいで」
「は?」
「ああ、尾美もそうだなって」

廊下を歩いている音までも吸われているような静けさだ。
聞き間違いではないのだろう。

「どういう意味だ?」
「色んなものを吸い込んで膨れ上がったのが、研修行って抜けてしなやかになって帰ってきた」

康の横顔にどこか寂しさみたいなものを感じて、考えを巡らした。
研修から帰って来た後の変化を喜んでくれていたのは間違いがない。
そして、それが嘘でないことも知っている。
けれど。

自分だったら、と考えてみる。
頑なな副隊長が、研修から戻ってきたら、少し変わっていた。
…そうだとしたら?

正解かはわからないが、自分で出した答えを、そっと口に出す。

「…晒すだけじゃダメなんだろう?」
「ん?」
「その前に染められることも、ましてや織られなければ、反物にもなっていない」

もし、自分だったら、と考えることも以前の私ならできなかっただろう。
余裕なくガムシャラで周囲を見ることが出来なかった私を変えた転機は確かに国会警備隊という隊であった。
けれど。

「私を染めたのは、この官邸だし、私を副隊長として織り上げたのは、きっとお前の存在だ」

康が居たから、私はこの隊で副隊長として立っていられた。
頑なな自分を、それでも見守って、おそらくフォローもしてくれていたのだろうとも思う。
飄々と何事もないように、支えてくれたから、今がある。

「そっか」
「ああ、そうだ」

隣に居てくれたことが当たり前だと思っていた。
けれど、これが当たり前でないことが今は良くわかるのだ。

今は、康が居ようとしてくれなければ、それは成り立たないものだったと知っている。

「これでも、頼りにしてるんだ、康」

織り上げるまでの時間が、雪に晒す時間よりもっと長いことを、私は知っている。
そして、感謝も、しているんだ。
声には、しないけれど。

「俺だって、頼りにしてるよ、尾美」

私の出した答えは、どうやら間違いではなかったらしい。
隣を歩く康の顔に、薄らとした笑みが浮かんでいたから。


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