兎はアリスと円の中
それが仕事ではないことは確かだった。 第一に制服を着ていないし、その椅子はラウンジにあったものだと知っている。 寮の前のスペースで色を塗り直しているところを見ると、修理自体は無事終わったのだろう。 足の長さを変えると言っていたっけ。 ああ、髪が邪魔になったらしい。 ひとつに結び始めた。 長い髪は手入れが行き届いていて綺麗だ。 痛んでいるようなところもないし、指に絡み取ればさらさらと零れ落ちていく。 何か特別なことをしてるのかと問えば、俺が見てる範疇のことくらいだというし 先端を切って揃えたりする以外は殆ど短くはしていない。 最初に髪が綺麗だと褒めたのはいつだったろう。 そんなに昔だったかな。 何をするでもなく遠くに見える光が反射するその髪を眺めて考える。 真矢に告白された時って、どんなだったっけ。 逃げ場なんてない、なんてあの時思ったけれど、実際、真矢はいつだって俺を逃がしてくれていたんだ。 いつだって、そばにあるものが大好きなものだとして、手を出さないでいることって、難し過ぎだ。 それを、真矢はしていた。 充分過ぎるくらいに、俺を甘やかして励まして優しくしてくれて。 何より俺を尊重して理解しようとしてくれた。 (これが、何にも頓着しないように思える奴が、どうしても欲しかった、という男の手か) 自分の手を目の前に翳してみた。 何の変哲もない手。 何か特別なことができるわけでもないし、特別綺麗なわけでもない手。 硝子越しの背中に手を伸ばして、その姿を隠してみる。 この距離だとすっぽりと掌の中に収まってしまう大きさ。 実際は俺がその腕の中に収まってしまう大きさだけど。 きゅっと握り、手の中を覗く。 当然、その手の中は空。 …届かないのは嫌だ。 背中がそこに見えているのに掴めないのも嫌だ。 急に思い立って、席を立つ。 目の前に置いてあった食器を片づけて、ご馳走様まではいつも通りだけれど そこからは急ぎ足で、階段は、全速力で降りていく。 追われていたのに、いつの間にか追っているなんて 真矢にしてみたら計算通りだったのかも知れないけれど、俺にしては計算外。 だって、こんなに胸が高鳴るとか 髪をぼんやりみていて楽しいとか なんでこっちを見上げないんだとか どうしたって理不尽な感情を俺に沢山植え付けて 時折、惚れ直しちゃうくらい格好良かったり、可愛かったり 情けない姿ですら愛しくなるなんて信じられない大誤算! 真矢は俺を追ってる、なんていうけど 俺だって真矢を追っていて くるくるくるくる、円の中、追い駆けて追い駆けられて 勝ち負けのない追い駆けっこを続けることになるなんて 真矢に一言言ってやらなきゃ気がすまない。 寮の入口まで駆けていく。 真矢まであと五十メートル。 三十メートル。 十五メートル。 ! そこで振り向いて笑うんじゃない! 万尋さん、なんて、呼んでんじゃない! 「今日は俺が先に声をかける番だったんだぞ!」 そんな決まってもいない順番を良くわからない理論を振り回して叫んじゃうくらい こんなに好きになるなんて。 必死でここまで走ってきたことを悟られるわけにはいかないけど どうにも顔が火照るのは収めようがないんだから仕方ない。 ああ、もう本当に予想外!想定外! だけどそれは全てに『幸せな』がつくってところが照れくさい。 だけどやっぱり俺に向かってくる真矢から逃げようなんて 今じゃちっとも思わないんだから やっぱりこれは『幸せな』なんだ。 先程まで硝子越し、伸ばしても届かない場所にあった体温を この手が掴むまで、あと五メートル。 Index |