遠い遠い約束を


初雪が降った。
暑い夏の年は寒い冬になるのだという周囲の話の通り、連日のように『この冬一番の冷え込み』と天気予報が報じている。
今夜もまた今年一番の冷え込みになるのだろうか、と考えつつ手袋をした手同士を無意識に擦り合わせ門扉から顔を出すと外出から戻ってきた待ち人とちょうど目が合った。

「副隊長、お帰りなさい」
「ただいま、康、変わりないか」
「特に問題は起きてませんけど…」
「『けど』なんだ?」

近所までとはいえ官邸警備隊と国会警備隊の間の公式の打ち合わせの為、纏っているのはスーツでありコートであることに何ら違和感はないのだけど手に持っているのが鞄一つであることに首を捻る。
出て行く頃には既に空は曇天、雪曇りであった筈だが。

「傘は」
「折りたたみは持ってるが、これくらいなら差ささずとも鍛練しているから風邪もひかないだろうし」
「わかりました。傘は持っているけど差さなかったんですね」

黒い髪へと積もる雪は”これくらい”とは簡単には言えない量だが、意識は全くないらしい。
手袋を外し、空気を送る程度に軽く叩いて空へと舞わせると、何故そんなことをされているかわからないといった表情で見上げられた。

「結構、積ってましたよ。そのまま館内に入ったら溶けて、水が滴る程度には」
「そんなにか?」
「そんなにです。ほら」
「本当だ」

通用口を入る間際にコートを脱ぎ、肩に積もった雪がはらりはらり落ちていくのを見て、やっと納得したらしく二度三度とコートをはたくその横で、自分も肩に積もっていた雪を払う。

「康はこれから休憩か?」
「お戻りになったら昼食をご一緒させていただこうかと、お待ちしてたんです」
「まだ隊長への報告があるぞ?」
「食事を取ってからでいいと言伝を受けたまわっています」

一緒に館内へと足を進めながら、擦れ違う隊員と挨拶をする合間に聞いてきた声に笑いかけると、少し眉を顰めた後、息を大きく吐き出された。

「手回しのいい奴だな」
「お褒めに預かりまして恐縮です」
「全く恐縮してるとは思えない」
「まあまあ」

手袋をしていてもどうしても冷たくなってしまう指先が館内の温度に次第に感覚を取り戻していく。
尾美の頬もほんのり赤く染まっていた。
普段よりむしろ良いくらいの顔色が血の巡りが良いことと体調の万全さが窺えて、どことなく安心してしまう。

「会議、どうでした?」
「滞りなく済んだ。細かくは今日中に文書にするから時間合わせて西脇と打ち合わせておいてくれ」
「了解です」

食堂へ向かう為に階段へと向かい、そこで一呼吸。人目がなくなったこともあってか、尾美の表情も少し和らいだ。
このタイミングで俺も外警班長からただの友人へとモードを切り替える。

「んで、西脇、大丈夫そうだった?」
「全く大丈夫ではなかった。凍える、出来れば炬燵を背負って歩きたい、とほざいていた」
「本当に一向に直らないな、寒がり」

カツカツ音を立てて階段を上りながら、コートの中の身体をいかに暖めるか考えているだろう同期を思い浮かべたら
脳内で『早く春になればいいんだよ』としかめっ面で呟かれた。
ああ、ホンモノも言ってそう。ってか、絶対、言ってる。

「康は大丈夫なのか?」
「西脇に比べたら全然。でも毎年、今年こそ暖かい冬になれと外警連中と祈ってはいるよ。叶ったためしはないんだけどね」

階段にまた一段足を掛けて先へと進みながら問い掛けた尾美に、想像の西脇に緩んだ頬を誤魔化す様に摩りながら、半分は冗談、半分は本気で返す。
冬の最中の外警は実際、西脇のような寒がりでなくても常に外気に晒されている分、厳しい。
いざという時、身体が冷えてしまって動かない、というわけにはいかないからそれぞれに工夫をしたり、交代のタイミングを早めたりはしている。
それでなくても年末年始は事件が多いから、特に気をつけなければならない時期だ。

「冷えた身体で怪我がないようにだけは気をつけろよ」
「うん、そうする。皆にも朝礼で言ってやってよ」
「は?」
「副隊長直々のお言葉なら、みんな聞くからさ」
「誰が言ったって同じだろ」
「そんなことないよ、言う人が言うとほら、重みが違うっていうかさ。石川もだけど、尾美も大概、自分の影響力がわかってないと思うよ」
「う」

反論できないままの尾美が小さく唸る声を聞きながら階段室を出ると休憩上がりらしい隊員が数人やってきて尾美に挨拶し、午前中にいなかったことについて言葉を交わし始めた。
隊員が尾美へと向こうから近付いてきて好意的に会話をする光景は、少し前では、有り得なかったものだ。
尾美の技量ならばいつか隊員に認めらえるだろうことはわかっていたけれど、思いのほかそのチャンスが早く巡ってきてくれたのは石川始め、国会警備隊のおかげだった。

「石川隊長、か」

国会警備隊の隊長人事でひと悶着あった後も、それからも、石川を中心とした隊の結束が緩むことはない。
あれだけの大所帯を纏める能力と努力には感服せざるをえないが、それ以上に、支えてきた側の能力の高さも素晴らしいのだろうとも思う。
今の体制になって、何年だっただろう。

「何か考え事か?」

会話を終えて隊員が会釈をして去っていくのを見送ると、ぼんやりしているようにでも見えたのか再び横に並んだ尾美が覗き込んできた。

「石川って何年目だっけ?」
「もうすぐ四年目だ」
「おお、即答」
「石川が隊長になった時は大騒ぎだったからな、覚えている」
「…俺も出来事自体は良く覚えているよ」

前教官を失くした後の僅かな空白期間を置いた冬の真っ只中の突然の大抜擢だった。
補佐官になった時でさえも一部隊員から不満が噴出しているのだと知っていたから前途多難であろうことがわかり切った船出に、隊は違えど、当時は友人の一人として心配になったものだ。
しかし、石川は取り巻く環境の冷たさを隊員の中の一握りの理解者や同期の仲間と共に情熱という炎を燃やし少しずつ少しずつ暖めていった。
やがて石川悠教官の武勇伝や自慢話が少し離れた官邸にも流れてくることになって、ほっと息を吐いたことまで思い出す。
けれど、石川のことと同等かそれ以上に、俺には覚えていることがある。

「俺、尾美が副隊長になった時のこともちゃんと覚えてるよ。それからの尾美も、今の尾美も」
「当然だろう。私だって知ってるぞ。康が外警班長になった時のことも入隊した頃のことも。傍にいたんだからな」

そう、傍にいた。警備隊に入る前、訓練校に入る前から知っている相手だ。
恥ずかしい過去も悔しかった出来事も、流した涙も喜びも、この隊で一緒に経験をしてきた。
様々な経験の上で隊を率いている今の尾美が、どうやって成り立ったのかを知っている。
尾美を覆っていた頑なな何かが雪のように溶け落ちていくのも見たし、胸の中に日だまりが現れたことも知っている。
その光が、尾美の心を更に照らして見えにくかった本来の姿を皆へ晒してくれたことも見てきた。

「お前と一緒に進んできたここから、国会警備隊を見てきた。知れば知る程、石川はすごいリーダーだと思う。が」
「思う『が』?」
「私もいずれ、追いつく」

尾美は、誰かを貶すことをしない。素直に実力を認めた上で、しかし自分はそれよりももっと優れた人間になると努力する。
清廉潔白で嘘がつけない真っ直ぐな人となりが、友人としても部下の一人としてもとても誇らしい。
国会警備隊で四年、隊を率いた隊長。
様々な危険をかいくぐり逃げ隠れせず、いつも隊員と共に戦ってきた隊長…それが石川だった。
今までの国会警備隊を知る関係者はきっと四年『も』隊長職に就いているのかと驚き、それを賞賛するのだろうけれど、いずれ十年、二十年続いていく内に、その驚きは薄れていくだろう。
そして在職期間が長くなっていることを誰も不自然に感じなくなることこそが今までの国会警備隊の教官達に報いることだとも思う。
石川はそれを叶えるだけの偉大なリーダーだ。
しかし。それだけのリーダーを要する国会警備隊を羨ましいと思ったことが俺にはなかった。
俺達にとっての最高のリーダーはこの隊で共に苦悩し共に成長をし共に歩む、隊長であり副隊長だからだ。

「いつか、遠い未来で思い出話なんかしつつ、あの頃は若かったねえって言い合うんだろうな」
「急に何を言い出すんだ、お前は」
「若かったねえ…って、でも、精一杯だったねえって、俺達には皆、そういう未来が待ってるんだって思うと年をひとつずつ重ねる楽しみも増すよね」

国会警備隊だけでなく、官邸警備隊だって危なくない場所なわけではない。
皆、覚悟はしている。でも、諦めるわけではないし、これからも何があっても諦めることはしないだろう。
諦めない時間の先で、長い在職期間が”当たり前”のことになっていく、そういう未来を手にしたい。
この男と、官邸警備隊の仲間と、国会警備隊の仲間と、共に。

「俺はさあ、必死になってた時代のことが話題になっても恥ずかしさでなく懐かしさだけが残る頃になったら、それをネタに皆で酒を呑むのを楽しみにしてるんだよ」

警備の一線から身をひいて、懐かしい時代の話を皆でして、あの頃に比べて今は平和になったなって。
俺は尾美の思い出話を、尾美は俺のを話せばいい。時折、金山と川谷のも織り交ぜて。
ずっと同じ隊に…傍に居るんだから、話のストックはきっと尽きない筈だ。
国会の奴らからも、沢山の話を聞かせてもらおう。
西脇は、冬は寒かったってその時もぼやくだろうし、俺はそれを聞いて今日の会話を思い出し、にやけるかも知れない。

「…だいぶ先そうだな」

尾美にも言いたかったことはわかったようで、食堂の入口に掛けかけた手を一旦引いて、俺に真っ直ぐ向き合った。
話している内容は決してふざけたものではないけれど一応雑談の形をしたものであることにはかわりないのに、含まれた約束の意味をきちんと感じ取ってくれる、この誠実さも尾美の一部だと思う。

「だいぶ先だよ、本当にずっとずっと先の話。でも叶わないことじゃないでしょ?」
「ああ、叶う。叶える」

尾美の声がはっきり告げる。
遠い遠い約束を。

「いつか必ず皆で」

誰一人欠けることなく、皆で、と。


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