slow


花の蕾は日一日と膨らみを増し、陽射しが柔らかく緩んできた。
爽やかな空気が少し開けた窓から滑り込んでくる。

休憩を取ろうと小さく伸びをして隣に置かれていた時計を眺めると時刻は四時を回ったところだった。
随分日が長くなったものだ。
席を立ち、窓辺によると、暖かさがより一層確かに感じられて眠気に誘われる。

「…いかん」

軽く首を横に揺らし、誘惑をどうにか振り払う。
それでも抗い難い眠りの魔の手。
逃げ出そうと集中して眼下を眺める。
ちょうど巡回の時間帯だ。
二人ずつ歩いてきた外警の隊員が一言二言言葉を交わして擦れ違っていく。
今日から昼の見回り時にコートを着なくなったようだ。
どことなく足取りが軽いように感じられ、そこにも春を感じ取れた。

服装以外はいつもの光景だがどことなく違和感を感じて首を捻った。
何かが足りない。
こめかみを人差し指で何度か叩く。
叩いて答えが飛び出てくる筈もないのだが暫く繰り返し、まずは頭をすっきりさせないとならないという結論に達した。
考えるのはそれからだ。

本当なら煎茶でも飲みたいところだが生憎茶葉を切らしている。
残っているのはいつぞやお土産だと貰った紅茶のティーバック。
自分のカップを手に取ると、ひとつ残ったカップが目に入った。

「…ああ」

…違和感の正体はこれだ。

今日は朝から康の姿を見ていないのだ。

勿論出勤はしている。
声も聞いたし、会話もした。
ただし顔を合わせていない。
いつもなら朝礼だったり業務引き継ぎだったりで早い時間には会うのだが今日は違った。
平和な一日のそろそろ日も暮れようかという時刻になっても会っていない。
こんな時間まで会わないのは休みの日くらいなものだ。
モニターですら姿を確認していないのだから、もしかしたら康もどこかの部屋に閉じ籠って書類整理しているのだろうか。

きっとそうだ、と根拠もなく確信する。
そして恐らく眠気に駆られている頃だろう。
少し歩いて気でも紛らわせてるんじゃないだろうか。
いつまでもわからないことだらけの男のことを、不思議とそんなことだけは良く知っている、と自分に笑う。

学生時代を共に過ごして道を違えることなく歩んできた。
別れの春も、出逢いの春も幾度も通り過ぎたけれど、様々な春もいつも康がそこに居た。

頑なな私のそばにも
苛立つ私のそばにも
前へ進もうとする時も立ち止まりそうになる時も
康は居た。

そしてゆっくりでも変わろうとする私のそばにも。

軽いノックの音に我に返る。
随分ぼんやりしていたように思えたが時計を見ればまだ席を立って三分程しか経っていなかった。

「どうぞ」

応えた声に開く扉。
そこから覗く顔は思っていた通り眠たげで思わず笑いが込み上げた。

「え、何?俺、そんなに笑える顔してる?」
「いいや、康に貰った紅茶を飲もうと思っていたところだったから、つい、な」
「ならちょうど良かった。そろそろ尾美一息入れてる頃かなと思ってきたんだ」

部屋の扉を閉めながら呟いた声はいつもなら気にも止めない程度のものだったけれど
日頃時間を決めて休憩しているわけではないのに
いつも康は上手い具合に休憩したくなる時間だったり仕事の合間でも話せる時間に現れることが多いことに気が付いた。

「どうして頃合いがわかったんだ?今日は一回も直接会ってないだろう?」
「うーん…なんでだろうね。まあ、それは感覚っていうか、長年の勘というか。尾美はこの頃合いな気がするって言うか」

小さく唸って暫く考えて。

「上手く説明できないけど、でもあってたろう?」

それもまた私と同じ、説明はできないけれど確かにそうだと感じるものなんだろう。

「…飲んでいくか?」
「ああ、うん、ありがとう」

カップを二つ手にしてそれぞれにティーバックを入れる。
急須で淹れた日本茶もティーポットで淹れた紅茶も当然美味しいが ポットの中のお湯を注ぐだけの手軽さで、仕事中の休憩であれば充分すぎるくらいに香り立つ。

「書類、片付きそうなのか?」

ティーバックを置く為の小皿を添えてローテーブルの上へと置くと
やっと扉前から離れた康がまた、ソファに座る体勢のままで静止した。

「俺、書類整理してるって言ったっけ?」

無意識に聞いていたのだが当たっていたらしい。
どう答えようかと考えて、ふと先程の康の言葉を思い返し、同じように繰り返す。

「長年の勘だな」

一瞬康は唖然とし、その後腰掛けるといつものからかい交じりの笑みを浮かべた。

「言うようになったねえ」
「…どういう意味だ」
「喜ばしいって意味」

けれどそのからかいの奥の本心は言葉通り喜んでくれているのだということがわかってしまうあたり、やはり付き合いの長さだろう。
突っぱねることも出来ないし、かと言ってありがとうというのもおかしな話で

「そうか」

小さく告げた言葉に康はひとつ頷いただけで紅茶を二口飲み終わるまで何も言わず
ようやく口を開いたのは、表から鶯が鳴く声が聞こえた時だった。

「春になるねえ」

気付けば毎日小さな変化を繰り返し、冬から春に緩やかに変わっていくように
様々な二人を積み重ねて、ゆっくり変化し続けて、今があるのだと素直に今は思える。
別れの春も、出逢いの春も幾度も通り過ぎたけれど
様々な春もいつも康がそこに居た。

「ああ。春になるな」


そして今年も康はここに居る。


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