背中


小さな頭を撫でる手に気付いて顔を上げると、遥か高い場所にある顔が太陽を背にして笑っていた。

『どうした?怪我したのなら見てやるから泣くな』

唇は動いていないのに言葉が頭の中へと響いてくる。
涙に砂が付着して、そのまま顔を擦ったからだろう。
頬が痛い。
一面に広がる砂漠には植物一本生えてはいないのに、どうしてこんなにこの人は瑞々しい生命力にみなぎっているのだろう。
差し出された手に手を重ね、立ち上がらされながらボンヤリ思った。

『どうしてこんなところにいる?』

膝についた砂を払われ、問い掛けられて自分の使命を思い出し、開きにくい唇を必死で開いた。



「…不思議な夢を見たもんだね」

仮眠から目覚めた後の身体を起こす為の一杯のコーヒーが入ったカップを持ち上げたまま聞いていた三浦医師がふと笑った。

「本当に不思議な夢でした」

夢を見ていたということはそんなに深い眠りには入らなかったということで、身体はまだ少しの疲れを引き摺ってはいたけれど、仕事に支障をきたす程ではないことは自分自身が医者であるからわかっている。
窓からは緩やかに日の光がささやかさに射し込み始めた。
部屋の片隅で毛布を掛けて眠る医務班の班員が眩しくはないだろうかと振り返り、穏やかな寝顔に小さく安堵の息を吐く。

昨日から今朝にかけてのテロ行為で、少なくない数の隊員が怪我を負う事態になった。
外警と室班が運び込まれたこの部屋も有事体制を引き、休みの医務班にも招集を掛けての治療に当たった。
堺医師と三浦医師で骨折やヒビの入った疑いのある隊員や縫合が必要な裂傷のある隊員、私が比較的軽度な怪我人の処置。
大まかに振り分けた役割で動き回って経過をこまめに確認しなければならない患者を医療ベットへと寝かせ終わったのは、三時間程前だったろうか。
命に関わる重篤なものや今後の活動に支障の出ると思われる怪我なはなかったから、それだけは幸いだった。

「どうぞ」

引き出しから出した堺医師から貰った個装パックの大きめのクッキーを二枚、机の上へと置く。
朝食の時間にはまだまだ早く、しかし、空っぽの身体にコーヒーだけというわけにもいかない。
いただきます、と小さな声が聞こえて手が伸ばされる。

「…食事は、食べれたの?」

パックを破った音に続いた言葉に、首を傾げた。

「食事、ですか?」

昨日は一晩中の治療でそんな暇がなかったことは良くわかっていると思っていたけれど違っただろうか。
問うより早く私の言葉の中のニュアンスに的確に気付いたようで、ああ、ごめんと小さく笑われた。

「さっきの夢の中の話。砂漠の真ん中でひとりで、食事や水分は取れたのかなと思って」
「ああ、そういうことですか」

夢の中の小さな子供の心配をしてくれていたらしい人に納得して、いいえ、と首を振った。

「荷物らしいものは何もなかったですし、何も摂れていなかったんじゃないでしょうか」

渇き切った喉の感触、一人で立ち上がる力もない身体から考えるにそれが妥当な判断だろう。

「でも助けられた時にお水を貰いました。それがひどく美味しかったです」

夢の中で感じるには生々しいくらいはっきり覚えているその水はまさに甘露の一滴と言っていい味わいだった。

「で、その小さな子は無事助けられた?」
「ええ、無事に助けていただきました」
「それなら良かった」
「助けられたのは私だけでないんですが」
「?」

一口、破ったパックからクッキーを齧った三浦医師が疑問を投げ掛ける視線をこちらに目を向ける。

「この先に仲間がいると告げたら、迷わず『では迎えにいこう』と言ってくださって」

夢の中の小さな掌とは較べようもなく大きくなった自分の掌を見つめる。
繋いだ手は灼熱の大地を歩いているというのに不思議と冷たかった。
氷のようなそれではなくて、例えるなら夏の日の夕立の後に吹く風のような心地良いもの。
その手に引かれて。

「暫く歩くと、そこに小さな子供姿の隊員達が居て」
「へえ」
「三浦医師や、ここに居る医務班のメンバーも居て」
「僕も子供ですか」
「ええ、あなたもです」

沢山の人をその手で救い上げた、その背中は本当に本当大きく眩しかった。
皆に癒しの水を与え、笑いかけ、時に叱咤し、励まして歩む背中が先を行ってくれたから
時には厳しいくらいに暑い太陽の下も歩いていけた。

「それから先を歩いてくれていた背中が止まって…見れば、砂漠に大きな出口が開いていて」
「砂漠に出口ってどんな風に?」
「そこだけ空が切り取られたみたいになってました。『さあ戻りなさい』って一人一人の背中が押されて中へと戻っていくんです」

穴の中へ入った少年達はいつもの見慣れた制服に身を包んだ隊員達へと変わっていった。
人を場所を信念を守れるだけの大きさを手に入れて、それぞれの居場所へと戻っていくのを
満足そうに見つめたその人と最後まで残されたのは医務班のメンバーだった。

「最後まで残った私達は手を繋いで、一緒に穴に飛び込みました」
「そこは一緒だったんだ?」
「ええ」

先程までは一人一人を送り出していた人は、私達にはこう言った。


「『さあ、戻って皆で守ろう』って」

だから。

「『あいつらはきっとわしらがいないと無茶をする』」
「…それは実に”らしい”発言ですね」

三浦医師がクッキーを口へと運びかけた手を止め、笑った。
そう、本当に”らしい”発言だと私も思う。
背中を見ていた私達に、並んで行こうと促してくれたその人の背中の安心感を未だに抜けないし抜けることがあるとも思えないけれど。
共に進もうと言ってくれたその夢のように、出来る限り共に歩んで行かせて欲しい。

「おはよう…いい香りがすると思ったらやっぱりコーヒーか」

しゅん、と短く扉が開く音がして診察室に夢の面影そのままの人が現れた。
瞬時に仮眠の群れを発見した眼鏡の奥のその目が柔らかく細められているのが見える。
堺医師はきっと、この隊に関わる全ての人にこの視線を向けるのだろう。

「おはようございます」
「おはようございます。医師も一杯いかがですか?」

コーヒーカップを掲げた彼の愛弟子と私とを交互に眺め
そして太陽の光に淡く照らされた光の中、何も心配はないというように笑ってくれた夢の中と差異ない笑顔で頷いた。

「いただこう。なんせ今日も、あの無茶ばかりする若造どもを見なきゃならんからな」


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