狼の寝床と夢見る兎


コーヒーをこぼして掛布団をクリーニングに出す羽目になったと言っていた彼に
残業で朝方戻る予定だから自分のベットを使えばいいと提案したのは俺自身。

仕事は順調過ぎる程に順調で
実際の部屋への戻り予定の時刻より早く帰れることになった。

それは彼の目覚ましが鳴る予定の三十分前のこと。

眠る人の傍で頬杖をついてその寝顔をただひたすらに眺めることに一向に飽きない
…なんて自分でも意外だった。
いくら見ても見足りないんだ、なんて言ったら、きっと真田あたり呆れた顔をするんだろう。

恋焦がれた人が俺のベットで当たり前な顔をして熟睡していて
そんなことだけでどうしようもなく幸せになっている自分がいる。

額に掛る髪を梳いて横へと流すと僅かに身じろぎ。
無防備な姿を晒す相手は笑っているような表情を浮かべていて、いい夢を見てるんだろうと想像させた。
穏やかな寝息。
一定の間合いのそれに自分の眠気が誘われて、膝をついた姿勢のまま前のめりになり頭を掛布団の上へと落とす。

同じ部屋に愛しい人が眠っている、そして今、すぐ傍で呼吸をしている。

温かな想いが胸へと広がって
この恋が激しさだけのものとは違うのだと自分自身で思い知る。

好きだから、自分のものにしたいと思う気持ちは勿論、ある。
自分は欲しいものが多い人間ではないから
本当に欲しいものは何をしたってどうしたって欲しいと思う。
嵐みたいに乱暴で凶暴で全てを今すぐ手にしたいと荒れ狂う想いだって心には飼っている。
でも。
同じような強さでこの寝顔を、この呼吸を、この穏やかな時間を守りたいとも思う。

小さく名前が呼ばれる。
寝言。
呼ばれた名前が自分のものであることにほっと息を吐き
その喜びに胸が高鳴った。

この心臓の音が外に聞こえていたら彼を起こしてしまいかねないほど
その音は大きく
もし聞えていたらこれほどわかり易い告白はないだろう。

自分への好意に鈍感と言ってしまうと違うのだ。
自分への特別な好意に鈍感なのだと、そう言うのが正しい気がする。
気付かれないままの想いが破裂して彼を傷つけてしまう前に
引くことは出来ないのだから、進むことを選ぶべきなのだろうとも思う。
進むことで傷つけるかもしれないけれど、自分はそれでもその選択しかできない。

けれど。

今しばらくはこの穏やかなまどろみの中
もう暫くは後輩で仲の良い友人で少し特別な同室者のポジションで
彼が無防備に俺のベットで安心して眠っていてくれる関係のままで。

ベットの表面を撫でる。
その時が来たらここは今と同じように安心できる場所だけではなくなってしまうだろう。
彼にとって落ち着かない場所であったり、逃げ出したい場所にもなるかも知れない。

だからこそ彼が
この部屋に、彼の傍らに、手の届く場所に
俺が居て当たり前だと思ってくれるようになるまで
俺が隣に居ないと寂しいと思ってくれるまで

一旦戸惑いに逃げ出しても、俺が傍に居ないと落ち着かないくらいまで。

選択の時はそれから。
この熱情を揺り起こすのは、その時。

身体を起し、うん、とひとつ伸びをして立ち上がる。
シャワーでも浴びてこよう。
今浴びて戻ってくれば、彼の目覚めに間に合う筈だ。

起きた彼は自分を見たら何と言うかな。
気を遣う人だからベットを占拠して悪かったなんて申し訳なく思ったりするかも知れない。
もしくはずっと見られていたのかと焦り、照れ隠しに怒鳴られるかも。
どちらにしたって俺にとってはまた違う彼を見られるのだから楽しみでもあるけれど。

ベットの傍から離れようとした時
彼の口から再び自分の名前が零れる。

彼の中に確かに芽生えているものは、俺と同じじゃ、きっとないけれど。

「…確かに俺が、そこに居るんだね」

眠る彼の夢の中で名を呼ばれる。
それくらいには彼の中へ自分は根付いている。

その芽が枯れないように、育てて、守って、そしていつか。

「…その時までは、まだ」

大きく開こうとする恋情を宥めるように自分の左胸をひとつそっと撫で
そのまま浴室へと向かう足元を照らすように
暗かった部屋に太陽の光が徐々に差し込んできていた。


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