on your mark
開発室は静寂に包まれていた。 顕微鏡を覗いて小さな部品を組み立てている宇崎さんの隣で 自分が草案の図面を引く為に立てる鉛筆の音が大きく響くくらいに静かだ。 アイデアを形にする為の作業は全く上手くいっているとは思えない。 草案だけで何百枚と書いているけれど、自分が思っているものとは食い違っていて 日頃、色々な開発品を目にしているだけに自分に才能がないのかもなんて方向へと思考を向かわせる。 この静けさもいけないのかも知れない。 顔を上げて空席を眺める。 良くも悪くも賑やかだと噂のこの部屋にしては本当に珍しい日だ。 休日のパレさんと冠さん、会議中のボスである班長のアレクさん。 メーカーに発注した素材を受け取る為に外出中の植草さんに ドクターに強制早退を申しつけられたロウさん。 こんな機会はほとんどない。 笑い声や議論を交わす声、足音だったり、キーボードを叩く音や紙を捲る音。 そんな日常聞こえている音がないだけでこんなに静かなのかと 静寂を感じる為に耳を澄ましていたところ。 「へ…っくしょん!」 「うわっあ!」 「うわあ!」 不意打ちに聞こえたくしゃみに思わず声を上げたら、その声に驚いて宇崎さんも叫んだ。 顔を見合わせてしばし沈黙した後、ふと照れ笑いを交わす。 「あ、大丈夫でしたか?」 手元で組み立てていた部品は飛ばなかっただろうかという心配が頭を過り慌てて問うと、宇崎さんも若干焦って顕微鏡を覗いた。 「うん。平気だった」 暫く眺めた後でほっと安堵の溜め息が吐かれる。 本当に良かった。 「じっとしてると少し寒いくらいだ」 部品を保護する為に周囲に風避けを立てて宇崎さんが席を立ち、薄手のカーディガンを一枚羽織った。 「ちょうどいいから少し休憩しよっと。妻夫木もどう?」 「あ、いただきます」 宇崎さんの机の上に並べられた缶コーヒーを一本渡されて、中心に置かれた会議用のテーブルへと移動する。 「あー、もう。アレク片づけておくって言ったのにそのまま行ったな!ロウは仕方ないけどさー」 机の上に組み立てられた模型を脇にどかし、その横に積まれたロウさんの資料の山も横にスライド。 出来た隙間の場所に椅子を移動させ、腰掛ける手慣れたいつもの動作。 いつもならこの後。 「いつもならここでアレクがお菓子とか出してくるタイミングだなあ」 思っていたことが言葉になって耳に届いた。 自分が無意識に言葉にしたのかと一瞬考えてしまったからだろう。 恐らく微妙な表情をしていたに違いない。 宇崎さんがプルトップを引き上げながら不思議そうに首を傾げた。 「ん?」 「い、いえ、そのう…静かだなあって思って」 「ああ、うん、確かに」 周辺をゆっくり見回して、宇崎さんは少し笑った。 いつもの笑顔とは違う切ないようなその顔が気になって、問い掛ける。 「どうかしましたか?」 「…ちょっとの間だけ、本当に少しの間なんだけどさ、この部屋に二人きりだったことがあって」 「ああ、冠さんが来た頃ですか?」 「うん。あの頃から較べたら、本当に物が増えたなと思って」 いつだったか聞いたことがある。 植草さんも言ってたっけ。 あの/頃は大変だった、って。 「その前は開発室なのに開発された物が何もなくてさ、今みたく、こんな風に散らかることもなくて」 「今は…自分が入った当初から較べても増えましたよね」 「うん。物も増えて、四六時中、声がして。誰かが何かに躓いたら、皆がそれに集まって。実験すればまた一騒動で」 宇崎さんは記憶を辿るように少し遠くを見る目をしていた。 そしてその目は次第に、今へと近づいて、俺を見る。 「妻夫木が配属決まった時も皆大騒ぎだった。俺が入って以来の他のDGからの転属じゃない新人だったし」 「そうだったんですか」 「うん、主に俺が騒いだ」 「宇崎さんが?」 「だって潰れかけた部署だったんだよ。それを転属して仲間になってくれた皆が支えてくれて、そこに『未来』が来たんだから」 「未来?」 宇崎さんはコーヒーを一口喉へと流し込んでゆっくり味わってから呟いた。 「俺達に続く人が出来たんだ。この部署にはまだまだ先がある。俺達が居なくなった後も」 その言葉に妙に寂しさが胸に広がってしまって椅子から立ち上がる。 驚いたように宇崎さんが俺を見上げているけれど勢いは止まらなかった。 「あの、俺は皆さんと一緒にずっと!」 「遠い遠い先の話だよ。俺達だってまだ全然開発したいものは沢山あるから」 大丈夫だから、という宇崎さんの声に腰をゆっくり椅子へと納める。 「すみません。でも、俺、その、居てもらわないと嫌です」 「ありがとう。でも、俺達を継いで欲しいっていうのは本心だから。プレッシャーに感じない程度に胸のどっかに置いておいてよ」 急に気恥ずかしくなって視線をアレクさんの模型に移す。 これをアレクさんは一晩で作ってしまった。 何もないところから。 …自分は草案ひとつ纏めることができないでいるのに。 気恥ずかしさで外していた筈の視線は、気遅れして外すそれに変わっていた。 「…俺にできるんでしょうか?今だって、俺、全然で」 「俺だって妻夫木と同じ頃、全然、まだ何も出来てなかったよ。でも」 励ますように力強く、けれど重圧にならないように暖かく 宇崎さんの声はそんな不思議な力を持っている。 「俺、何かしたいって思ってた。スタートラインにはついていたいって、思ってた。いつでも走り出すことができるようにって」 いつでも走り出すことが出来るように。 顔を上げるとそこには既に前を走りながら時折振り向いて俺を気にかけてくれる頼もしい先輩が居た。 まだ走り出すことができなくても走りたいと思うことも 走り出す準備をすることも出来るんだ。 「まあ、超特急で走るのとか忙しなく走るのとか、色んなタイプは居るけど」 皆が一緒の方向に向かって走っているから、道に迷ったら聞いてくれればいい。 そんな風に言って、宇崎さんが笑った。 今度は寂しさのかけらもない、あの、いつもの笑顔で。 Index |