みちくさ


官邸の門を守る隊員にお疲れ様と声を駆けて一歩表へ足を踏み出すと乾いた冷たい風が肌を撫でていき、ひとつ震えて、マフラーへと鼻先を埋める。
まだ寒さが緩むとは思えないのに暦の上では春なのだというのだから何とも解せない話だ。
ポケットの中を探るものの目当てのものは見つからず、あ、と気付きと共にくぐもった声にならない声を上げた。

「………しまった。今朝、手袋して来なかったのか」
「またか」
「制服の時はそれ用のがあるから油断しちゃうんだよね」

だいぶ寒さも和らいだ昼に出勤する日などは高確率で家に忘れてきて、一昼夜を勤務で過ごして早朝に帰宅する際に気付く。
朝の出勤時でもポケットにカイロなど押し込んでくるから行きはぬくぬく、帰りはすっかり冷めきったものを握って愕然といった具合。
本日は後者だ。
ポケットの中に突っ込んでいた手にあたる使い捨てカイロに熱はなくむしろ冷えて固まっているように思えるほどで全く防寒の助けにはなってくれない。
寒風に晒されるとわかっていながら冷え切ったカイロよりかは幾分マシだろうとポケットから一度抜いて、もぞもぞと布の隙間から口を出し、赤くなった指先に息を吐きかけ熱を伝えると同時に、隣で尾美が小さくくしゃみをした。

「風邪?」
「いいや。ちょっと冷気を吸い込んだだけだ」
「ならいいけど気をつけてね」
「そっちこそ」

二人で並んで帰る、帰り道。
冬になる度に懲りずに繰り返す会話も、これで幾度目なのだろうか。
こんなに長い付き合いになるとは思わなかった…なんて、考えたことがない。
もしかしたら尾美はそう考えたりもしたかも知れないけれど。
尾美佑というのは随分と不思議な男だ。
プライドも理想も高く、しかし言うだけの才と努力する力を持ち合わせ、少しばかり素直でない感情表現を常とするくせに時折世慣れていない純粋な部分を垣間見せる。
誤解を臆せずに言うのであれば出会った当初から酷く面白い男だと思っていた。
尾美を”友”と呼んだら一生俺はこの男に飽きることはないだろうし生涯付き合いは続くだろうとも思えた。
実際今もそう感じているから、直感というのは侮れない。
勿論、職場まで一緒になどとは、考えてもいなかったけれど。
気のせいかもしれないが吐く息で多少は温もった指を再度ポケットに差し込む。
手首に引っ掛けた鞄が持ち手を握っているわけではないから腰辺りでコントロールが取れずに前後に暴れるけれど、指を出すのは躊躇われ、だらしなく揺れるがままに任せることにした。

「ポケットに手を入れたままで歩くと転んだ時、危険だぞ」
「転ばないように気をつける」
「出すという選択肢はないのか」
「指先冷たくて」
「確かに今日は群を抜いて寒いと昼のニュースで言っていたから、寒いのは認める。西脇だと凍えていそうだな」

寒さに弱いと昔から評判の国会警備隊の外警班長は三日程前の会議の際に四勤連続で夜勤だと言っていたから
恐らくこの寒さ厳しい中、今夜も巡回をしていることだろう。
気の毒だとは思いつつも、ムクムクと好奇心が胸の中で急激に芽を出した。

「国会、寄って見てかない?」
「わざわざ西脇を見に行くのか」
「今日は何枚着てるんだろうって気にならない?西脇、外警で一番にコート着始めるって評判だから、もうコートだけじゃ我慢出来てないよ。きっと下に何枚も着込んでるから着ぶくれになってやしないかと思って」
「あいつは本当に寒がりだからな」

でもそれくらいの弱点がなきゃ”秘密主義の上、完璧な外警班長”なんて近寄りずらくなっちゃう一方だろう。
甘いものが嫌いだとか、寒さに弱いなんて人間味が垣間見えるから、親しみも湧くし慕われてもいるのだと思う。
弱味をからかった時にふと見せる渋い表情は、飄々としている普段では見えない顔でもあることだし。

「お前はそうでもないな」
「ん?」

考え事をしながら歩を進めていた最中の言葉に首を捻ると、補足しようとしてくれたのであろう尾美が続けて口を開く。

「お前はそんなに酷い寒がりじゃないだろう?」
「そりゃ西脇ほどじゃないけど…寒いは寒いよ」
「そうか?」
「うん。温かいものが恋しい程度には寒い」
「温かいもの?」
「おでんとかシチューとか」

口に出した途端に、思い浮かぶ。
大根にちくわにハンペンに玉子。
練り辛子をちょんと付け、口へとほおり込む。
噛む度に広がる出汁の熱さ。
ハフハフと湯気を逃がしながら頬張り、咀嚼する。

「あー…口にしたら食べたくなった。おでん。おでん食べて帰らないか?」

並んで歩く尾美は少し呆れたように俺を見ると、やれやれと息を吐いた。

「国会に行くんじゃなかったのか」
「国会にも行くけど。国会寄った後に」
「家に早く帰りついた方がよっぽど早く温まれると思うがな」
「こんな寒くちゃ帰り着く前に心が折れる。ちょっとだけ。熱燗できゅっと一杯さ」

咀嚼した食べ物が食道を通り過ぎるのを追いかけるように、流し込む熱い液体。
寒さからの現実逃避としては完璧に近い想像に緩んだ口元をマフラーに再度埋めると、すぐ横の尾美も目元を可笑しそうに細めていた。

「あれ、なんで笑ってんの?」
「いや、お前の発言がな。年を取ったものだと思って」
「え、それって俺がおじさんになったってこと?」

確かにもうさほど若さはないと思うけれど、言った相手が同じ年となるとそれなりにショックではある。
表情にこそ出さないが半ば小芝居気味に、残り半分はいささか本気で
まだ現れてもいないが今後間違いなく現れそうな笑い皺が出るであろう目尻をポケットから引き出した手で抑えると
尾美は愉快そうに肩を揺らしながら笑った。

「そういうことじゃない。おでんと熱燗で一杯なんてもの選ぶところがな、昔では有り得ないと思うってことで」

聞いた言葉に反射的に安堵の溜息を吐いて、尾美の言う昔に思いを馳せる。

「学生の時はコンビニで肉まんだったな」
「私に最初に買い食いを教えたのはお前だ」
「尾美は道草もしない子だったから大変教えがいがありました」
「そうだぞ。私は悪い先生に教え込まれて買い食い族に引き摺りこまれた生徒だ」
「でもだいぶ気にいってたでしょ、肉まん」
「…嫌いではなかった」
「冬のコンビニといえば肉まんあんまんだったしね」

一歩一歩と進む度、鼻の奥に走る痛いようなムズ痒いような感覚は冬の空気のせいだけだろうか。
横目で確認した尾美の目は真っ直ぐ正面を見据えてはいたけれど、楽しげな光を湛えていた。

「訓練校の時は校庭走った後の缶コーヒーだった」
「寮の自販機でコーヒー押したらミルクセーキ出てきたこともあったね。あれって西脇だったっけ?」
「西脇が眉間に深い皺を刻んでいて、その後、宇崎が受け取って嬉々として飲んでたのは覚えてる」
「夏の帰り道はアイスだったけど、冬の帰り道は本当に色んなものを食べたし飲んだね」
「焼き芋も確か食べたな」
「うん。寮の前をトラックが通ったのを三百メーターくらい追い駆けて行って、呼び止めて買って」
「屋台の鯛焼きも美味しかった」
「湯気が顔に上ってきて、その匂いで食欲が増したりしてね」

その時その時の思い出が味覚と共に思い起こされる。
その様々な食べ物と飲み物と風景を、尾美と共有してきた。

「随分、色々、一緒に食べてきたし飲んできたものだ」
「全くね」
「こうして大人になってもお前と道草を食っていることを学生時代の自分が知ったら驚くだろうな」

道草などと可愛い言葉ではもうないけれど、今も一緒にこうして居ることをやはり尾美は意外だと思っているのだろうか。
寒さに強張る顔を解す風を装って表情を見せないように頬を擦りながら、何気ないふりで問い掛ける。

「驚くのは、今も俺がここに居るから?」
「康がいるのは別段驚くべきことじゃないだろう」

さらり告げられた言葉の呆気なさにだらんと手を脇へと落とした。

「そう、なの?」
「ああ。何故康が今も隣に居ることに過去の私が驚くんだ?」

心底、意味が理解できませんと言った様子で尾美がきょとんと俺を見ていた。
隣に居るのが当たり前のことだと、意識もせずにそう思ってくれているらしい尾美に嘘は感じられない。
しかし、それならば。

「じゃあ、何に驚くの?」

何に驚くことがあるのか。

「そんなことは決まっている。道草が案外楽しいと思っている私に、だ」

道草も知らなかった相手。
道草することを拒絶したり、逃げられたり、嫌がられたりしながら距離を縮めて時間をかけて付き合ってきた相手。
時には買い食いしたり、遠回りをして帰ったり、それによってトラブルを起こして叱られたり、笑ったり怒ったりしてきた相手が、今。

「康が私に道草を教えたんだから、責任を取ってこれからの道草にもずっと付き合え」

ああ、予定がある時は別だ、と尾美が付け足す言葉は聞えているようで聞えていなかった。
自分の斜め上を行く返答はしかし、嫌なものでは全くなかった。
道草にずっと付き合えなどと、まさか、そんな回答が来るなんて思ってもみなかった。
仕事でもない、特に約束をしたわけでもなく、何かのついでにふらりと横道に逸れる。
見たことのない道を通って、知らなかった方法を使って、縛られず自由にどこへなりとも行く。
日常の延長で、少しだけいつもと違うことを。
それが道草だ。
一人でだって勿論出来るけれど、尾美はそれを一人ではしないと言う。
俺と共にするのだと、言う。
知っているのだろうか?
道草は待ち合わせをして行うんじゃない。
ふらり気が向いた時にいきなり行うのが道草で。
道草に誘う相手。
それはつまり、いつも身近に在る存在ということに他ならないってこと。

「…なら、俺の道草にも、ずっと付き合ってくれる?」
「予定がなければな」

生涯ずっと付き合いが続くに違いないという直感は本当に、本当に侮れないものだったと知れば学生時代の俺はきっと驚くだろう。
そしてそれが嬉しいなんて感じている自分にも同様に驚く筈だ。
この気持ちが正しくはどういった感情なのかどの方向に進んでいるのかわからないけれど、共に居られる約束が純粋に嬉しいことだけは確かで。
行き先のわからないままに進み、辿り着かない今が楽しいとも思う。

「じゃあ、まずは?」
「西脇を見に行くんだろう。そして、きゅっと一杯だ」
「それは俺の道草プランだけど?」
「今日は康のプランに付き合ってやると言っているんだ」
「それはそれはありがと」

真っ直ぐ前を見て再び歩き出す尾美の背を一息置いて追いかけた。
寒さなど暫し忘れていた筈の出しっぱなしだった赤い指先に、息をそっと吐きかけ、並んで共に冬の星空を見上げる。
帰り道に寄る場所を、ああでもないこうでもないと言い合って
これからもきっと幾度も幾度も俺は尾美の隣で、尾美は俺の隣で
繰り返し繰り返し続いていく冬の光景。



繰り返し繰り返し、続いていけと願う冬の道草。


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