まねく


『今日はなんの日か知ってる?』

不意に問いかけられて、尾美は首を傾げた。

今日は普通の一日であった。

あえていうなら総理も官房長も留守だった為に官邸に人気が少なく
だからこそ目の前の男が応接用の机でデスクワークに励んでいられるということを尾美は百も承知している。
しかし、それが答えなわけもなく、当然そんな返事を期待している筈もないこともわかっていた。

「…思いつかないな」

二月も下旬に入ったところ。
先日巡回の最中に日本庭園にて見つけた雪の重みに折れたらしい一枝の白梅が室内に爽やかな香りを漂わせている。

二月の下旬に何か大きなイベントがあったろうか。

尾美は自らのデスクに置かれた卓上カレンダーで日付を確認した。
きっちりと予定の書きこまれたその紙の本日の日付には何の予定も記入されてはいない。
その今日ももう終わりに近い時間だから、既に過去形になりつつある記念日なのだろう。

「何かヒントはないのか?」
「ヒント?」

珍しく頼ってきた言葉へ男は報告書の日付を書き込んでいた顔を上げ、手を頬の横へ持っていき招くように動かす。

「康、そんな変な動かし方をすると筋を痛めるぞ」
「常日頃からしてないから平気だよ」

まずそこか、と男は更に言い募った。
尾美にとっては至極当たり前の心配であり、何か言い返そうとしたところで康の仕草に思い当たる。

「さっきのこれは、猫か?」

手にした万年筆を一旦机へ置き、先程康がした仕草を真似て耳の横で動かしてみせる。
康がしたものよりも遥かに滑らかな動きだ。

「おお、大きい猫」

感心したように康も手にしたボールペンを置くと手を打ち鳴らした。
今更ながら尾美の頬に朱が差す。

「誰が猫だ」
「だって、猫のつもりでやったんでしょ?」
「…で、どうなんだ。猫で当たりか」

心の中では確かにその通りだと認めつつも照れくささに頬の火照りを手の甲で押さえて急かす尾美へ、康はゆったり頷いた。

「うん。今日は猫の日なんだってさ」
「猫の日?」

訝しげに首を傾げる上司でもあり同期でもあり昔馴染みでもある相手を康は愉快そうに眺め
自らの腕にした時計の針を一度確認してから答えを口にした。

「今日は何日?」
「2月22日」
「2が3つで」
「3つで?」
「にゃんにゃんにゃん、だって」
「にゃんにゃんにゃん。ああ、なるほど」

語呂合わせだと聞いて尾美が感心したように呟くと
康が再び時計を見たことに釣られて、彼も自分の腕時計に目を落とし。

「康、それなら、今からすごいことになるな」
「うん」

そこから二人は黙り込み、十秒程時間だけが流れ。

…その沈黙を破ったのも同時だった。

「2月22日22時22分22秒!」
「にゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃん!だ!」
「良く鳴く猫だな」

デスクワークに追われて気付けば時刻はこんなにも遅い時間になっていたというのに、疲れはどこかへ飛んでいっていた。

何事もない一日の終わり。
二人は顔を見合わせて笑った。

「こういう小さなことって結構頭に残ったりするんだよね」
「少なくとも私は今日が猫の日だということは忘れない」

トンと手元の書類を纏めて、尾美が立ち上がる。
康も書き終えた書類の束を手元の書類ケースへ収めると、ボールペンを手に取り、ソファから腰を上げた。

「俺は尾美の招き猫を思い出すだろうな」
「それは思い出さなくていい!」
「いいじゃん、福招いてくれそうだよ?」

提出トレイの中に書類ケースごと入れて、康は上着を羽織る相手を待つ。
尾美は何か言いたげな表情を浮かべたものの、食えない笑みを浮かべる康へと軽く息を吐き。

「今後ずっと言われそうだな」
「何十年先もきっと言ってるだろうね」


康は思う。

『こんな小さな出来事を何十年先にも話していられたらいい』

尾美は思う。

『招くことが出来るなら、その未来を招きたいと願う』

二人は思う。

『招き猫の手でかき集める運の中に、そんな運命も入っているといい』


「…さて、帰るか」
「帰りに一杯、付き合ってよ」

…けれど、そんな想いを心の中へ招き入れたことを二人は互いに知らぬまま

揃って部屋を出た。


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