キール・ロワイヤル


その人が初めてこの店を訪れたのは常連の方のお連れ様としてだった。

常連のその方はお酒に飲まれる飲み方もしないし、かといって酒量が少ないわけではなくて
自分の中にペースを持っていてそれに従って飲むタイプで
飲んでいる相手のいる時は柔らかな気遣いを人に気づかれることなく行える人物だ。
連れてこられた方や待ち合わせた方の話は良く聞いていたし相談にも乗っている。
的確なアドバイスの時もあれば、からかいと優しさの混ざり合う励ましの時もあった。
意見は意見で延べ、後は相手に任せるその投げ方も絶妙だ。
けれど、彼が自分の内面を開示し、誰かに頼るところはあまりなかった。
しかし、勿論お客様としても知人としても信用のおける人物であることに間違いはない。

その彼が連れてきたほかの誰とも対応が違っていた相手…その人が今目の前にひとり座っている。

「実は待ち合わせには少し早いんです」

そう言った人…橋爪さんは綺麗な髪を耳に掛けながらグラスに飲み物を注ぐ私に告げた。
暗く落としたアンバー系の灯りの下でも、耳が薄らと赤いように見える。

綺麗で瑞々しく、初々しいひと。

初めて彼を見た時に感じた印象は、変わることがない。
今日もまた同じように感じて、つい微笑みが浮かぶ。

「…どうぞ」
「ありがとうございます」

お任せでと言われて作ったカクテルはスパークリングワインとクレームドカシスをステアしたキールロワイヤル。
うっすらと赤く色づく飲み物は、待ち人に逢うことを心待ちにする人に似合う気がした。

「…美味しい」

一口飲んで、喉が動いた後、溜息に似た囁きが零れる。
その一言に嘘はないと緩む頬からわかるから、言葉にせずに微笑みと会釈を向けた。

店内にはまだ私と橋爪さんのふたりきり。
営業時間は始まったばかりだけれど、今日はきっとカップルでのご来店が多くなるだろうと
バーカウンターの中でお客様からは見えない位置に張ったカレンダーを眺める。

以前までなら橋爪さんが待つ人が今日のような日に来店することはなかったように思える。
それだけでも、彼へ与えた影響は大きいのだろう。

「あの…吹越さん」

半分程フルートグラスの中身を空けてから目の前の人が切り出した。

「お願いがあるのですけれど」
「…私にできますことでしたら」

恐らくこのお願いの為に早くきたのだろうことも
耳の縁を赤くしていたのであろうことも何となく感じ取れるから、出来る限りの協力はしたい。
頷くと彼は持ってきていた紙袋をカウンターの上へと置いた。

「このようなところでお願いするのは本来違うお話ですので、あの、本当に無理でしたら無理と言っていただければと思うのですが」

本題に踏み込めない自分がもどかしいのか、橋爪さんは更に紙袋を私の方へと押し、近付けた。
中身を確かめるべく、封をされたテープを開く。
と中から一本のビールが登場した。
国内のものでは当然ない。
一度か二度、飲んだ記憶のあるそのパッケージに彼のそわそわとした物言いの納得がいった。

「これは、また」
「西脇さんは、甘いものが苦手な人なので、その…いつも私ばかりが…」

内面を滅多に開示しない彼がこの店で開いていった最大の秘密は恐らくこの橋爪さんと
…彼の言い方であれば『紫乃』さんとの関係。

「…ですから、出していただけないでしょうか?」

照れと緊張の為かカラカラに乾いたのだろう喉から掠れたような声が聞こえてくる。
西脇さんが甘いもの全般が駄目だということは普段から公言されてたるし
この店でも甘いものは全て避けて、当然チョコレートも口にすることはない。

今まではきっとそれで良かっただろう。
彼はイベントに興味はないとも言っていた。

けれどバレンタインを共に過ごしたいと願う相手が出来たのだから、少し話は変わってきたのだろう。

「橋爪さん」

自分ばかりがチョコレートを貰ってしまう、と考えて考えて。
どうやったらチョコレートを渡せるだろうと
きっと、目の前の一気に全体が色づいてしまった真っ赤な頬の人は方法を捜して。

「…幸い、当店にはこの関係のビールはございませんし、一年に一度のことです。お手伝いさせていただきますよ」
「ありがとうございます」

明らかに安堵の息を吐いた橋爪さんはいつもより更に美しく見えた。

いつもは冷静で自分で作ったペースを崩すことのない西脇さんも、この一途な人の前ではきっとそのペースを崩すことだろう。

「お客様が幸せな夜を過ごしていただけるようにさせていただくのも、私共の喜びですから」

お預かりしますね。
呟いて紙袋から出したビールを冷蔵庫に入れる。

「きっと驚かれますよ」

渡されたのは…飲んだのはビールでも、本当に体内に入っていく正体は恋心なのだから。

その飲み口に託された想いを感じ取るだけの感性を常連の彼は持っている筈だ。
そして、その思いにいつも乱さぬペースが崩されたとしても
多分彼はそれが橋爪さんが起こした変化ならば喜んで受け入れるだろうことは想像に難くない。

乾いた喉を潤す為にキールロワイヤルを飲む彼の同じ色の頬を眺めながら
そして恐らく心の中も甘く色づいているであろうことを感じながら、祈らずにはいられなかった。



チョコレート入りのビールが、今夜二人に更なる幸せを運んでくれますように。


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