いつかのみらい


久し振りの日本で俺を出迎えてくれたのは
白に桃色を溶かし込んだような淡い色合いの花弁が無数に空に広がる光景。

桜の名所として有名なその場所が新しいクライアントの職場の近くだったことに気付いたのは
近隣の建物や立地、交通手段を頭に入れる為にあてどもなく歩いていたところ
擦れ違った人の肩に柔らかくまだ散ったばかりであろう花弁を見つけ
また、その直後に連れ立った二人組の華やいだ笑い声と言葉の端々に上る話題が耳に入ったからだった。

海外で暮らしていると日本の四季の移ろいは遠いことになってしまいがちだったが
春に咲き誇るその花を忘れたことはない。
三月も終わり、四月上旬になれば日本の友人が一様に写真を送信してくる。
画面いっぱいに広がる姿が日本を恋しいと思わせてくれた。

通り抜けていく人々の中で、邪魔にならぬよう端へ移動し、足を止める。
見上げた空は一面の桜色。

ああ、綺麗だ。

思わず長く細く感嘆の息をついた。

桜の花は日本人が好む要素ばかりで出来た花だと、昔、聞いたことがある。
奥ゆかしい香りも、散り際の美しさも
日本の美徳とされているものがそこにはあるのだと力説もされたが
今ひとつピンとはこなかった。

どうぜならずっと咲いていてくれたらいいのに。

そんな風に思う自分はまだまだ大人になりきれていないのだろうか。

道の両側に植えられた桜の枝が重なり、それはまるでアーチのように天を覆う。
その下を過ぎ行く人達は腕を組んだり手を繋いだりそっと寄り添ったりとどうも恋人同士が多いらしい。

大切な人と見たい風景。

そう考えれば、誠にこれはその言葉にぴたりと当てはまる風景に間違いがなかった。

今のところ、恋愛する暇もないし、恋人が欲しいとも思っていないけれど。

恋人が出来たとしても俺は今の仕事を止める気はない。
四六時中危険に晒される仕事。
自分に好きな相手が出来て、相手も自分を好いてくれたとして
けれど命を張って誰かを守る仕事をしている自分を案じ、時に心細くなるであろう相手の心情を思えば
尚更に恋人という特別な存在は持てないと思う。
それ以上に、心配をかけるのは百も承知の上で
それでもどうしてもその人と共に生きたいと思うような恋に落ちることがなかったのだけれど。

そぞろ歩く人々の幸せそうに見える笑顔。

咲く桜の美しさを共に見上げたい人がいつか出来たとして
その人がこの花のように笑ってくれたらきっと幸せだろう。

花のような笑顔を守る為なら何でも出来ると思えるような相手が現れたとしたら
その花を決して散らせることはないように、大切にしよう。

ふわり舞う桜の花弁が鼻先を掠めた。
その行く先を目で追い掛ける。

眩しい光で見えないけれど、そこにひとつの影が見えた。
その唇は自分が思い描いた通りの美しい微笑みを象ったように思え
無性に良く見なければ良く見ようという意識が自分を追い立てて
そこまですることもないだろうという程に目を擦り。



「…あれ…ここ…?」

擦った後に開いた視界に広がったのは見慣れた事務所の天井。
交互に休憩を取る為に用意されたSP用の部屋に置かれたソファに横たわり
短い仮眠を取っていたことを思い出す。

少なくともかつて桜を見に行ったのは事実に間違いはない。
あれは真実、自分自身の記憶だ。
けれど最後の人影は実際に逢ってはいないし、心当たりもないように思える。

「夢、か」

記憶の中の恋人達の姿にでも当てられたのだろう。
勢いをつけて立ち上がるとソファが軋む音を立てる。
夜鏡になった窓ガラスでネクタイを締め直し、身支度を整えた。

時間は過ぎ去り、季節も変わっていた。
今は大臣のSPで仕事漬けの毎日。
けれど、それはそれで充実した毎日だった。

「色気のない話だな」

当分、桜色の幸せな恋なんてことには縁がなさそうだ。

でも、もし、その時が来たとしたら。
そして、たった一人のひとと出逢えたら。

きっとそれはあの夢の中で見た人のように微笑むに違いないなんて柄にもないことを考えつつ、踵を返して扉へ向かう。

いつものように勤務に戻る為に。
明日にまた一歩近づく為に。


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