ひとりでないから


夜中の館内は少し肌寒く、冷える。
昼間の穏やかな天気との落差に体調管理はしっかりしなければ、と思う。
少し暗めに電気を落とした廊下を歩く自分の足音がひたひたと響き、夜闇を一人散歩でもしている気分になった。

「…あれ」

それは自分が声を発したのかと思うほどの絶妙なタイミングで姿を捉えるのと同時に届いた声だった。

「どうしたの」
「眠れないから少し書類をまとめておこうかと思って。そっちは?」
「こっちも」

ラウンジの入口で手にしたノートPCを互いに掲げて見せ合い、室内に足を踏み入れる。
珍しい程に誰も居ない室内。
消灯されていた電気をテーブルのある窓際の一角の分だけ点けて、隣を見た。

「場所、あの辺でいいか?」
「うん、ありがとう」

自分の仕事をし易い場所にPCを置き、向かいに陣取った室井に目を向けると、室井は目の辺りを押さえて小さく息を吐いているところだった。

「大丈夫か?」
「いや、ちょっと急に明るかったから、目がシバシバしただけ」

言った言葉に嘘はないが、それだけでもないことも同時にわかる。
室井は上手い嘘が吐けるタイプの人間ではないのだ。

「今日、忙しかったのか?」

PCを置いてそのまま踵を返しカウンターに向かう背中へ声を掛けるとインスタントコーヒーの瓶を手にして、振り向き様に首が傾げられた。

「んー…忙しかったわけではないけど」
「曖昧な物言いだな」

ミルク入れる?と入れ物を指すジェスチャーで問われ、軽く手を振っていらないと示すとカップ二つに粉を入れ、ポットのお湯を注ぐ間を置いてから呟くような声が届く。

「悩みが伝染したかなあ」
「何だそれ?」
「新人の子達、入って最初の壁に当たる頃だからちょっと話し聞いたんだ」
「ああ、そういうことか」

室井と自分との違いは沢山あるけれど、一番大きいのは恐らくこの気遣いの差だろう。
仕事の悩みや環境に対する不安などの聞き手や相談相手としての適性に優れているのは当然のごとく室井だ。

「なんだろう、臆して怯えてるってわけじゃ勿論ないけどさ。…はい」
「ありがとう。…で、『勿論ないけど』の続きは?」
「うーん、色々考えててさ」

カップを運んできた手から受け取ったカップをテーブルへ置いて椅子へ深く腰掛けると室井も同じようにカップを置いて
浅くスツールに腰掛けてテーブルに肘を立て、頬杖をついた。

「訓練校では聞かなかったことも沢山起こってるし目の前でも起こってるから気持ち的に不安定なんだろうなと思うんだけど」
「今、余裕のある奴なんて誰もいないさ」
「それは、そうだけど。心持ち、少しだけでも穏やかで安定した気分になる方法とかないもんかなーと思って」
「むしろ今余裕のある奴がいるなら、それはよほどの天才か仕事に甘いかのどちらかだろ?」

頬杖は少しずつずれ、室井には珍しい行儀の悪さで
テーブルに上半身を倒し、頬をペタリと閉じたままのPCの背板へとつけ、小さく唸った。

「まあ、そうなんだけど。何かできることないのかなーと思っちゃうんだよねえ」

親身になって物事を考えることが出来る分こうして悩むことも多いのだろう。
自分達の同じ頃を思えば、授業の中で教えられた国会と現実の大きな違い、確かにそれは大きな壁であった。

「コーヒー危険だぞ」
「ああ、ごめん」

室井の分のカップを少しずらしてやると、慌てて起き上がり、しかし、やはり今一つ表情は冴えないままだ。

「いいアイデアとか何言ってあげたらいいだろうとか…中々浮かばなくてさ」

ふと吐かれた溜息は熱いコーヒーの湯気を逃す為だったのか心の中の逡巡を逃す為なのか判断がつかない程にさり気ないが見過ごすことはできなかった。

「…真剣に自分達のこと考えてくれてる人間がいるってだけで、心持ちって変わるものだろう?」

コーヒーを啜り、PCを開いて電源を立ち上げながら目の前の相手に話しかける。

「室井の態度で充分過ぎるくらいだと思うけど」

眼鏡が蒸気で少し曇った。
外してカーディガンの袖で軽く拭き取る動作を何故か視線を感じて顔を上げると、ぼんやりした視界に幾度か瞬きを繰り返す室井の不思議そうな顔があった。

「答えは自分でださなきゃいけないってことは、ここに来て隊員になってるくらいの奴なんだからわかってる筈なんだ」
「まあ、うん、そうだよね」
「それでも悩んだ時に結論に至るまでの道を一緒に歩くと言ってくれてる室井が居るんだろ?」

掛け直した眼鏡の向こうには室井が居て、自分で淹れたのにコーヒーにも手を付けもしないで、自分のことでもないことに思案顔をしてる。

「一緒に考えてくれる室井がいるんだから、新人は贅沢だ」
「贅沢?」
「ああ、贅沢だ。悩んでる室井には室井はいないんだから」

どんなに悩んだところで室井が自分自身に相談を持ち掛けるなんて器用なことは出来ないのだから。

「じゃあ、俺はもっと贅沢してる」

けれど当の本人は多少明るくなった表情で予想外のことを言い出した。

「だって、いつも真田いるし」

こんな相談がいのない人間に相談しているというのにこの発言が出ること自体驚きだが、室井自身はさも当然のような顔で、やっとコーヒーへと手を伸ばした。

「…室井に敵う気がしないのは何故だろう」
「え、真田に勝てる気なんて全然しないけど」

室井と自分との違いは沢山あるけれど、敵う気がしないというところだけはお互い共通らしい。

「まあ、いい。それが室井だ」
「?」

勘違いでも自分が新人達にとっての室井のような存在であるのなら、それでもいいかと思う。

そして口にはしないまでも。
俺にとっての室井だって、そんなようなもの。


先程まで冷えていた身体はコーヒーのおかげなのか、いつの間にか温かくなっていた。


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