走る音
たしたしたし、と廊下を軽やかに駆けてくる隊内一小さな身体をした隊員の足音。 振り返り、しゃがめば、タイミングばっちりで腕の中に飛び込んできた。 ブレーキが効かずに滑ってしまったらしい。 アン!と高く吠える声は耳触りなものではなく、恐らく朝の挨拶のつもりなのだろう。 少し前を歩いていた西脇さん達がその声に応えるように『おはようダグ』と挨拶を返していく。 「お、ダグも飯?」 人の流れとは逆方向、食堂から大きな声が聞こえる。 ぱたぱたぱた、とダグのそれよりかは勿論重く、しかし、速度的には随分と速く近付いてくる足音。 この人の足音も間違いようがない。 「本木さん、もう食べ終わったんですか?」 「ああ。魚定食、美味かった!あれ、けど梅沢、俺より前に正門出てってなかったっけ?」 「池上さんに組手、教わってました。昨日の夜の」 昨日の夜、正門警備を組んでしていた池上さんが侵入しようとした不審人物を鮮やかに取り押さえた技を知りたくて 夜勤明けの池上さんに頼んで、コツを伝授してもらったのだ。 「侵入者押さえたヤツな。あれはすごかった!」 「本当に」 池上さん自身小さくはないのだけど、一緒に警備をしていたのが自分とグレイさんに本木さんだったから小柄に見えてしまったらしい。 線も細く見える人だけど、その実、制服の下には警備に適した鍛えられ方をした身体があり、努力も怠らず、実力は折り紙つきで 監視室で指示出しの経験も積み始めている、班長の愛弟子と囁かれるだけの力のある人なのだ。 侵入者はそれを知らなかったから、池上さんをターゲットにした。 勿論、池上さんはナイフ片手に飛びかかる犯人を交わして、そのまま背後に回り込み、瞬きの間に地面に伏せてしまったのだけど。 方法自体は一般的な捕縛ではあったけれど、何しろ段違いに速かった。 「『康も真っ青な速さだった』って、さっき、無線で隊長に班長が話してた」 「康さんって官邸の外警班長のですか?」 「そうそう。噂になってたろ?こないだの、官邸襲撃犯追い駆けてきた時にすごい速さだったって」 自分は他の犯人を取り押さえていたから見ることは叶わなかったけれど、犯人に投げた警棒に追いついて確保したと周りの先輩方が言っていた。 自分が投げたものに追いつく速さというのがどれくらいかはわからないけれど、とにかく現役の警備隊員が驚くくらいに速いということだけはわかった。 「段違いに速いから、西脇さんは足音で”康が来た!”ってわかるんだってさ」 「本木さんの足音もわかりますよ。本木さんの名前言いながら、近付いてくる感じがします」 とにかく元気で派手で、少しばかり無茶もするこの先輩の足音は 今行くぞ、すぐ行くぞ!と主張しながら近付いてきて入隊した時からずっと心強い味方だった。 「自己主張が強いって言いたいのか、おりゃ!」 手が自分の髪へと伸ばされて、ぐちゃぐちゃっと掻き混ぜるのに合わせてダグが一声また鳴いた。 「なんだよ、ダグも俺が自己主張激しいって言ってんのか?」 本木さんのターゲットはダグに映り、同じように毛並みを撫でていく。 廊下には人影がないけれど、この先にある食堂からの声がここまで漏れてきて楽しげで穏やかな普通の朝の音がしている。 「ダグ、今日は室内警備頑張れよ!」 「室班と仕事だって言ってましたね」 国会と警備隊のマスコット犬であるダグは時折、取材対象になったり、予約している見学者と面会したりといった仕事をしている。 国会と警備隊の仕事について興味を持ってもらうという大事な仕事だ。 走り回ることや外が大好きなダグにとってはあまり得意な仕事ではないと思うけれど、元々賢いからしっかり役割をこなしてくれている。 「何もなければ、夕方、散歩に行こうな!」 「あれ、本木さんでしたっけ?」 「うん。田中さんとシフト替わったから。んじゃ、またな、ダグ!梅沢も早く行かないと定食なくなるぞ!」 普通は夜勤の連勤の時というのはそれなりに体調の心配もされるんだけれど、本木さんに関しては、それが殆どない。 勿論、心配でないということではないけれど、それにも増して、本木さんなら大丈夫だとされる信頼のようなものがあるからだと思う。 ぱたぱたぱた。 急ぐ必要なんてないのに、去っていく足音はいつもの本木さんの足音と同じ。 くうんとダグが鼻を鳴らして、正面を見据えた。 中から岸谷さんが『おはよう』と片手を上げている。 片手に持たれているのは恐らく、ダグ用のご飯だろう。 「はい、行っていいよ」 床に下ろすと一回、こちらを見てからダグが走り出す。 早く、一緒に行こうよ。 そう誘われた気がして、自分も足を踏み出した。 たしたしたし。 軽やかに食堂に近付く足音が、いつもの朝の風景に溶け込んでいく。 岸谷さんだけでなく、朝食の列に並んだ人達が笑顔で待っている。 今朝は何事も起こっていないのだろう。 食堂は朝の混雑真っ最中。 逃げ出したり、行方不明になったり、とにかくやんちゃで手も焼くけれど、ダグが自由に走れる時は、隊内で何も起こっていない時だ。 たしたしたし。 その足音がいつでも聞えていますように。 そんな風に願いながら、ダグの後ろを追いかけた。 Index |